mclean-chanceの「Love Cry」

はてなダイアリーで長年書いてきたブログを移籍させました。生暖かく見守りくださいませ。

新作に向けて復習しております!

デイヴィッド・リンチ、マーク・フロスト『ツインピークス

第1部「ローラ殺人事件

 

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本作に特に切れ目はないのですが、便宜上、このように分けさせていただきます。

世紀のド変態映画監督にテレビドラマを作らせよう。という企画がどうして持ち上がったのか、私は今でもよくわからないんですが(笑)、なんと、2017年に「25年後に会いましょう」という、ローラ・パーマーのセリフ通りに続編まで放映が始まってしまった、奇跡のテレビドラマ。

私は、コレでデイヴィッド・リンチが好きになり、映画作品も見ましたし、サントラまで買ってしまい、リンチ作品の音楽を担当するアンジェロ・バダラメンティの大ファンになってしまいました。

「もう映画監督はやりたくない」とインタビューに答えているそうですが、そんなリンチが突然、ネット配信で『ツインピークス』野続編を発表しました。

その経緯はいずれ明らかにされるでしょうけども、やはり、リンチファンとしましては、中学生以来見てなかった本作をもう一度見直して、どんな作品であったかを思い出す必要があると思ったんですね。

この、第1部。というのは、パイロット版(かつてはコレで一応完結させていたんですが、現行版は途中をカットして、テレビドラマに直結するように編集し直してました)と、テレビドラマの第16話までを指します。

人口5万人ほどのワシントン州の田舎町、ツインピークスで起きた、ローラ・パーマーという女子高校生の殺人事件(もう古典的作品といってよいので、かなりネタバレさせてしまいますが、連続殺人事件に発展します)に、FBIの特別捜査官が派遣されます。

 

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ローラ・パーマーの遺体。

 

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 ローラの殺人現場にいながら生存したロネット・ポラスキー。

 

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 クーパー捜査官が録音機に話しかけるシーンはおなじみですね。

 

コレを主人公のデイル・クーパーで、リンチ作品に欠かせない、カイル・マクラクランが演じます。

 

捜査を進めていくと、優等生で皆から慕われていたローラが、実は、コカイン中毒になり、複数の男性と肉体関係がある事が判明し、国境を超えたカナダにある売春宿「片目のジャック」に勤めていた事までわかってきました。

 

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片目のジャックの看板。

 

それだけでなく、町の基幹産業である、パカード製材所をめぐる陰謀やなどなど、一見、平穏である町の裏側で、起こっている悪事が、この事件から次々と判明していきます。

 

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パカード製材所のオーナーである、ジョシー。香港出身。

 

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パカード製材所。

 

このお話しが面白いのは、殺人事件の犯人を見つけるという事だけでなく、コレと直接関係しない話しが(かなりしょうもない話しも含めて)、重層的に起こっており、よって、小さな町のお話であるのに、登場人物が大変膨大になる事ですね。

特に面白いのが、エドとネイディーンの夫婦の話なのですが(笑)、ネイディーンが音のしないカーテンレールの特許の申請を拒否された事にショックを受けて、睡眠薬で自殺未遂を起こすのですが、これから回復してから記憶がなぜか高校生に戻り、異常な怪力になるエピソードですね(このどうでもいい話しを第2部にもまだ引っ張り続けます)。

 

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クーパー捜査官の隣がエドとネイディーン。ローラのお葬式の場面ですね。


また、ツインピークスの保安官のアンディと保安官事務所の事務員のルーシーとの間の妊娠問題も、ずっと引っ張り続け、コレも第1部で解決しません(笑)。

 

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独特のしゃべり方が印象に残るルーシー。

 

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ボケボケキャラですが、なぜか捜査の重要な局面で活躍するアンディ。

 

つまり、殺人事件の解決とともにいろんなエピソードが収斂していかないんです。

コレはリンチとマーク・フロストが意図してやっている事でして、殺人事件は大きなエピソードですけども、それは、ツインピークスという小宇宙の一つのエピソードでしかないんですね。

 

冒頭で遺体で発見されるローラ・パーマー役のシェリル・リンは、従姉妹のマデリーン役でずっと出てくるという、白戸三平もびっくりな役者の使い方も面白いです。

 

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ローラの従姉妹、マデリーン。髪の色が違うだけです。

 

それは第2部以降ますますそうなっていくので、それが一般的なファンを失う事にもなり、不本意な形で終わらざるを得なかったんですが。

基本的にリンチの世界観は統合失調気味で、何かが解決してないという事がよく見られます。

客観的には殺人事件よりも悪辣なパカード製材所などをめぐる争いも別に解決していません(第1部で1番犠牲者が多いのは、この利権を巡る争いであり、町の実力者である、ベンジャミン・ホーンがどう見ても1番の悪党ですね)。

クーパー捜査官が滞在している「グレート・ノーザン・ホテル」で銃で撃たれているんですが、この犯人は第1部では捕まってません。

リンチ作品に親しんでいるとそういうものと思って見ていられるんですけども、ハリウッド映画のように、引いておいた伏線がキレイに収斂されていく作品に慣れていると、リンチの描き方はとても不親切に感じる事でしょう。

それでもこの第1部は、殺人事件という大きなエピソードがハッキリありますので、話しのスジがわかりやすいです。

が、この殺人事件がとりわけリンチテイストが満点で、「チベットの思考法に基づく操作法」やら、肝心なところが大変ブッ飛んでおります。

また、小人や巨人、片腕の男「マイク」、「丸太おばさん」といった、超自然的なキャラクターが、解決に重要な役割を果たしているのが、普通の意味でのユニークさを通り越しております。

 

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丸太おばさん。

 

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 リンチのおじいちゃんフェチが爆発するホテルの従業員。

 

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 特に役に立たないジャコビー博士。ハワイ好き。

 

しかも、犯人は人間ではありませんから(笑)。

クーパーは凄腕の捜査官なのであって、それは本作を見ていただければよくわかる事なんですけども(片目のジャックそこに突然、チベットとか彼が見た夢とか、丸太おばさんのメッセージが捜査のカギとなるところが、本作の尋常でない点であり、コレが他の追随を許さない魅力です。

 

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クーパーと保安官のハリー・S・トルーマン。大統領と同じ名前です。そしてドーナツ(笑)。

 

あと、総監督であるリンチが監督した回は、やはり、他の監督が撮ったものと比べて、クオリティが高く、特に中盤の山場である、クーパーが何者かに撃たれ、この時に初めて巨人が出現するのですが、コレに当たる第8話は、第1部全体の白眉だと思います(第7話のマーク・フロスト監督会がそれに次ぐ素晴らしさです)。

あと、本作というか、リンチ作品を決定的に印象づけている、アンジェロ・バダラメンティの音楽は見事という他ないですね。

 

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本編にもカメオ出演している歌手のジュリー・クルーズが歌う「falling」は、かなり話題になりました。

リンチの作品の特徴にポップとストレンジという二つの要素があると思うのですが、彼の映画がことごとくカルト作品になるのは、そのストレンジの部分が受け付けられないからなのですが、本作は、リンチだけではなく、マーク・フロストという相方がいて、映画よりも表現の制約が強いテレビドラマであったというのが、吉と出たのでしょう。

それによって、ストレンジがほどよくポップと融合して、絶妙なバランスとなり、類稀な傑作となったのではないでしょうか。

それは映画版がかなりキツい作品になってしまったのを考えてもわかります。

本当に久々に見返しましたけども、全く古びてなかったのに改めて驚いてしまいました。

 

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今こそ見直したい傑作!

高畑勲宮崎駿アルプスの少女ハイジ』 その3

 

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第3部は、ハイジをこれ以上ゼーゼマン家にいる事は、精神的に危険であると医師に判断されて、再びアルムに戻ってくるのですが、第1部とは比べ物にならないほど内容が複雑で登場人物が一挙に増える点がなんといっても特筆すべきですね。

 

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 右がクララの主治医。

 

帰ってきたハイジがクララのおばあさまからもらったグリム童話集やクララからの手紙を読む姿をアルムおんじが見て、頑なに学校に行かせようとしなかった考えがとうとう変わった。という所がキッカケとなります。

冬は麓のデルフリ村で生活し、ハイジはペーターと一緒に学校に通うようになるのです。

ハイジは単にドイツ語の読み書きができるようになっただけではなく、世界が広がったんですね。

登場人物も村人の登場する場面が増えますので、物語としての印象が相当変わります。

 

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ハイジのおみやげ、ご存じ「白パン」に喜ぶ、ペーターのおばあさん。

 

ご存知のように、クララがアルムにやってくるという、物語最大の山場があるわけですけども、ペーターの人間的成長も実は見どころです。

山羊飼いとしての仕事があるため(それだけ貧しいということなんですけども。。)、普段は学校に行く事が出来ないペーターが、冬だけは学校に通うことになっていたのですが、学校に行く事に意味を見出せはず、サボり気味でした。

ペーターは、第3部の段階で14歳でくらいになっているのですが、ほぼ文盲と言ってよい状態でした。

しかし、ハイジたちがデルフリ村で冬だけは生活する事になると、サボりがなくなります。

本作で数少ないアクションが繰り広げられる、村の子供たちのそり大会で、ペーターは自作のそりで参加しますが、それは、おんじの家で作成したものでした。

 

おんじは、「学校帰りに作ってもよい」という条件で材木も道具も自由に使わせ、ペーターはほとんど自分1人で完成させるのです。

 

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勉強がサッパリで歳下のハイジが読み書きがドンドンできるようになっている事で(クララに、ヘタくそながらも手紙を何度も書いているくらいです)、ペーターはかなりかなり卑屈になっていたと思いますが、ソリ作りにスッカリのめり込んでいく姿が描かれます。

 


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こういう男の子の描かせると、天下一品です。

 

宮崎駿の作品にしばしばこういう場面が出てきますけども、男の子というものは、こういう時期が必要なのでしょうね。

クララがどうしても山の上の花畑に行きたいことを知ると、クララをおんぶして連れて行ったりもします。

 

この時、クララは「ハイジのように走り回れたら、どんなにいいだろう。歩けるようになりたい」と初めて言うのは重要ですね。

そして、自分のためにペーターやハイジ、そしておんじたちがクララのためにどれだけ心を砕いていたのかに初めて気がつくんですね。

病弱で足が不自由であり、お金持ちのおじょうさまですからお世話をしてくれるのが当たり前の生活であったため、この事になかなか気がつけなかったのですね。

そんなクララが初めて役に立ったのが、ペーターのおばあさんのために聖書を読んであげる事だったんです。

コレは、クララがハイジに「7ひきの子やぎ」のお話するエピソード、そして、第3部になって、ハイジがおばあさんのためにたどたどしく聖書を読んであげるというシーンが伏線になっているのですが、クララは自分が人のために役に立つ事ができる事に気がつくという、とても重要な場面です。

第3部、というよりも本作に一貫してしているテーマは、「他人のためにつくす事の大切さ」は、最後はクララを立たせるために、あらゆる人たちの尽力があった事は言うまでもありません。

実は、クララが立ち上がるのを最初に目撃するのは、クララのおばあさまであるのは、意外と忘れられているのかもしれません(それがクララが歩けるようになる事への決定的な確信になるんですね)。

そして、最終回にチラッと再登場するロッテンマイヤーさんが、「この調子なら、春には山に行く事ができますよ」とお屋敷の階段を使っての歩行練習を手伝いながら、クララに優しく語りかけるのは、けっこう驚きます。

 

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前半ではコナンばりにムチャなアクションもしてくれました(笑)。

 

ロッテンマイヤーさんにも、クララが歩けるようになったと言うのは、強烈な出来事だったのでしょう。

もっと言いますと、実は、歩くためのトレーニングは話数的にいうと、そんなに多くないです。

 

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 つい車椅子に頼ろうとしてしまった自分が情けなくなり、泣いてしまうクララ。

 

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時間をかけているのは、クララがホントに山に来ることが出来るのか?という事と、デルフリ村と山の生活に馴染むことや人々との交流、ハイジペーターやクララ、ハイジの内面的な成長、おんじの変化なんです。

 

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特訓よりも、3人で遊んだりするシーン方に時間を割いてます。今みると、呆気ないくらいクララはすぐに立ててしまいますね。

 
ですから、クララが立てるようになるかどうかは実はそんなに主題ではなかったりします。

さて。

本作は、原作によると、1890年がスタート地点です。

原作とスタート地点を変える必要は特にないと思われますから、ここからハイジとクララの生年がわかります。

ハイジは1885年生まれて、クララは1882年です。

つまり、このままふたりがドイツなりスイスで生きていおりますと、第一次世界大戦ナチスドイツの台頭を目撃する事になるんですね。

しかも、ふたりはヒトラーとそんなに年齢が違いません。同世代と言ってよい。

そう考えて見ると、このお話で描かれた、誰にでも当てはまるような身近ながらも崇高なヒューマニズムの問題が、なんとも切実なテーマになってきますよね。

コレは戦後の日本です作られたアニメーションですから、さすがにナチスドイツの問題は結びつきませんが、ロバート・ベラーが言うところの「心の習慣」の危機を、すでに高畑、宮崎コンビは日本社会に感じ取っていたのかもしれません。

本作は、子供達にこそ見ていただきたいものです。


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決して昔話ではないのです。

山本直樹『レッド』(講談社

 

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1972年2月あさま山荘事件を起こした、新左翼の一派である連合赤軍の動向を1969年から1971年12月31までを追った作品。

どうしても、あの延々とテレビで生中継された立て篭もり事件を起こした人々として認識されてしまいますが、実際には、そこまでに15人もの死者を出していた事はあまり知られていません。

本作は、彼ら彼女らがいかにして先鋭化して、仲間同士を殺しあう集団になっていったのかを克明に描いた稀有な作品です。

山本直樹は1990年代からマキントシュを使ってマンガを描いているそうですが、その独特なペンタッチのない、情感がこもることを敢えて拒否したような絵柄が、この作品に適度な距離感を与えていて、後半のかなりハードな描写も冷静に描写されていますね。

登場人物が大変多く、淡白に描かれているので(それは作者の意図するところでしょう)、移入しづらいので、少々読みにくいですが、それも読み進めると次第に慣れてきて、キャラクターの性格や特徴も区別できるようになってきます。

まだ、事件に関わって服役中の方もいますので、作中の人物名や党名は全て仮名です。

本作の大きな特徴は、頭に「③」と番号が振られている登場人物が出てくるところです。

作中、一切説明しないので、コレは一体どういうことなのだろう?と読んでいたのですが、1巻の最後の交番襲撃失敗によってのちに連合赤軍として合流することとなる、「革命者同盟」のメンバーが警官に射殺される事でそれがどういう事なのかわかります。

その射殺された若者の頭には、「①」とありました。

つまり、この番号は死んでいく順番なんですね。

最初は身内同士のリンチではなく、警官に射殺されていたという事自体、全く知らなかったのではないでしょうか。

この8巻までで、4人死んでいるのですが、3人は、反逆者として「革命者同盟」の2人が絞殺され、最後の1人は、「総括」が事実上集団リンチにエスカレートした末に死亡してしまいます。

 

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 総括という名のリンチ!

 

 

連合赤軍となっていく過程は、史実よりも簡略化して、「革命者同盟」と「赤色軍」という2つの新左翼セクトが合併した「赤色同盟」として描いています。

東大紛争が日米安保条約の自動延長によって、事実上無意味化し、成田空港建設反対運動などに活動をシフトしていったのですが、その中で武装化するという過激な路線が生まれてきます。

そこで交番を襲撃して拳銃を奪おうとするのですが、コレに失敗し、銃砲店からライフル銃を奪うことにし、コレに成功しました。

また、活動資金を獲得するために銀行強盗なども行うようになります。

これによって警察は、新左翼セクトへの取り締まりに俄然力が入ってしまいます。

こうして、革命者同盟のメンバーたちは、次から次へとアジトを変えながら、全国を逃げ回るハメになってしまいます。

こうして文章に書いてしまうと、とても殺伐としてしまうんですけども、当人たちは案外若者らしく、サークル活動みたいにやっているところがとても興味深いですね。

 

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 部活の合宿のようです。

 

 

それが先鋭化するキッカケとなったのが、拠点を都市部から山間部に移そう。と決めた事からなんですね。

ココで、なんで山荘に立て籠もっていたのか?という伏線が見えてきます。

そして、コレに赤色軍という別のセクトが合流してきて、両者は1つの組織になっていきます。

この、山梨県群馬県の山間部を転々としての軍事教練や党派を1つにしていく上での綱領などを擦り合わせていく過程で、人間関係に亀裂が走ったり、離脱者がではじめます

 

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闘争。と勇ましく行ってますが、やっている事はサークルの合宿みたいな事ですから、自ずとムリがありますよね。

殲滅作戦。という恐ろしげな名前の作戦が出てくるんですけども、コレも奪った数丁の狩猟用のライフル銃で交番を襲撃して警官を殺害するという内容なのですから(計画を立てている途中で車を事故で壊してしまい、できなくなってしまいます)、なんとも。。

 

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ココに至って、身内への引き締めのために、革命者同盟は2名を処刑してしまいます。。

次第に逮捕者も出てくるんですね。

この辺りからどこか牧歌的な話が次第にコワイお話になっていきます。

ココから先は実際に読んでいただきたいですが、10代から20代のごくごく若者たちが、極端で観念的な世界に陥っていったのかの端緒となるところまでを実に丹念に描いているのが、見事であります。

 

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 はじめは単なる悪ふざけでした。

 

 

日米安全保障条約が自動延長した事で、実は大目的を見失ってしまった新左翼の一部が先鋭化して本作のように、様々な事件を起こしていくのですが、この事が若年層から政治を断絶させてしまったのではないのかと思われます。

 

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ほとんど何を言っているのか不明。。

 

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コラコラ(笑)。

 

 

フランクフルト編!

高畑勲宮崎駿アルプスの少女ハイジ』 その2

 

 

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デーテの再登場によってフランクフルト編が始まります。

 

 

本作は1年近い放映でしたから、一本で論じるのはちょっと難しいと思いまして、3本に分けました。

本作はもう古典と言ってよい作品ですから、かなりネタバレさせながら論じますので、まだ見たことない方は、アマゾンプライムで一気に(と言っても、50話を超える作品ですけど)ご覧いただいてから読んだほうがよいです。

さて。

本作は、三部構成で、前回は主にその第1部であるアルム編における宮崎駿の画面構成のすごさについて語りました。

今回は第2部のフランクフルト編です。

本作は、特にいつのお話といことは一度も出てきませんけども、ヨハンナ・シューピリの原作と照らし合わせると、1880年代、即ち、日本でいうと、明治の中頃のお話ということになるのですが、フランクフルトは、新興国ドイツ帝国のほぼ真ん中に位置する、商業を中心とした大都市です。

現在でも、ヨーロッパの金融の中心の1つです。

かの文豪ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、このフランクフルトの裕福な家庭に生まれました。

ハイジがこの大都市に行かざるを得なくなる原因はまたしても叔母のデーテでして、彼女が働いていたゼーゼマン家。というフランクフルトでも屈指も商家の娘を学友にという、かなり無茶な話をハイジに持ってきてしまったんですね。

アルムおんじは反対しましたが、ハイジを騙して汽車に乗せ、フランクフルトのゼーゼマン家の大邸宅まで連れて行ってしまいます。

 

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騙す形でハイジを汽車に乗せてフランクフルトに連れていってしまう、デーテ。

 

 

汽車という近代の乗り物が突如出現する事で初めてこの話しが19世紀末である事を、見ている側に突然わからせるというか、ものすごい断絶感を与える高畑勲の演出は、見事ですね。

この第2部は、宮崎駿よりも、高畑勲の演出でジックリと見せていこうとしてします。

山での生活は、モミの木という、トーテムがあって、おじいさん、山羊飼いのペーター、ペーターのおばあさんそして、子ヤギのゆきちゃんやセントバーナードのヨーゼフ達との、いわばおとぎの国のような、ほとんど神話構造みたいになっていて、いつ、どこの話しなのか、ほとんどわからないんですよ。

場面設定が極端なまでにミニマムなんですよね。

そこを転換させるのが、第1話で自分の勝手な都合で伯父であるアルムおんじにハイジを押しつけていったデーテなんですね。

突然、フランクフルト。という実に生々しいちめいがでてきて、神話世界から、リアルな現実生活に、ほとんど強引に引き込まれたハイジは、恐らく、生まれて初めてドイツの大都市というもの、近代というものに無理やり参加させられてしまいます。

 

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嫌がるハイジを無理やり汽車に乗せるデーテ。

 

 

よく考えると相当に極端な展開ですが、アニメーションであるがゆえにそれがなぜが成り立ってしまうという事をよくわかった上でやってますよね。

コレを実写でやると何ともかなり不自然だと思います。

 

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もう1人の主人公と言ってもよいクララ・ゼーゼマン。大富豪の一人娘だが、病弱で歩く事ができない薄幸の美少女。

 

 

このフランクフルト編の前半は、なんと言っても、ゼーゼマン家の執事である、ロッテンマイヤーとハイジの絡みが重要ですね。

読み書きもできず、自分の洗礼名である「アーデルハイド」すら知らず(ちなみにアーデルハイドは、亡くなったお母さんの洗礼名でもあります。お父さんはトビアスと言いまして、おんじの息子でこれまたすでに亡くなっています)、テーブルマナーも知らないハイジを完全に野蛮視し(クララも当初は物珍しがってハイジを見ている事に注意する必要があるでしょう)、コレを無理くり「文明人」として矯正するように接し続けるこのキャラクターの振る舞いと、まさに「未開人」としてしか生きてこなかったハイジ(それはアルムおんじの考えの反映でもありますが)の対比によって、いささか極端ではありますが、未開と文明を対比させているんですね。

 

 

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ほとんど「ニガー」としか見ていないのがすごいですな。。

 

 

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動物がとにかくニガテなロッテンマイヤー

 

 

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チョイチョイ出てくる手回しオルガンの少年。亀を飼っている。

 

 

何しろ、ハイジの名前すら剥奪してロッテンマイヤーは「アーデルハイド」と呼び続けます(最後までこの呼び方を変えないんですよね)。

アフリカからアメリカ大陸に無理やり連れてきた人々を奴隷として売買して、「ジョージ」とか「トマス」と名づけるような構造とほとんど同じ事をしているんですね、これは。

よく考えると、恐ろしく残酷です。

高畑、宮崎コンビは、人間が本然的人間が持っているであろう、「野生の思考」に満ち満ちたハイジを支持し、都市文明に批判的な目を向けて描いており、それは後に世紀の傑作『未来少年コナン』を生み出す事になるのですが、それはまた別の機会に。

 

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ペーターのおばあさんのために白パンを隠し持っている。当然、硬くなってカビが生えてしまうのだが。。

 

 

この極端なまでのボンデージ生活にハイジは心身のバランスすら壊してしまうほどですが、コレを救うのがクララのおばあさんなのでした。

ロッテンマイヤーとハイジ。という構図では、ハイジが潰れますからそこに名バイプレイヤーが登場する事で、この極端な構図が、とても豊かになり、都市生活者にも野生の思考を持つ人がいる事(そして、それは孫であるクララも第三部には於いて身につけていく事になりますね)を示しており、単純な都市文明批判になる事を回避しています。

 

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バーン!と扉を開けて「クララ!」と叫んで登場するのがゼーゼマンさんのお約束。ハイジとクララの生活がうまく言ってない事を知る。 

 

 

クララのおばあさまは、ゼーゼマン家の繁栄を一代で作ったと思われる大変な人物なのですが、その登場の仕方からして、只者ではありません。

 

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クララとハイジのために息子(つまり、クララのお父さん)に呼び出されて登場するおばあさま。

 

 

このおばあさまの登場によって、フランクフルト編の後半は実にカラフルになり、また、本作での重要な2つの要素、それは、ハイジがドイツ語の読み書きができるようになる事、そして、クララの健康のためには、自然の中で暮らすことが最も大切である事が見いだされます。

ロッテンマイヤーと家庭教師は、ハイジにとにかくアルファベットの暗唱をひたすら強制するのですが、一向に覚えようとしません。

その様子を見たおばあさまは、就寝時にハイジの部屋にコッソリとやってきて、ハイジが眠るまで本を読み聞かせる事にしました。

これを繰り返すうちに、本には面白い事が書いてある事を知り、ハイジは自分から本を読もうとするのでした。

 

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人形劇で遊びながらハイジにドイツ語を学ばせるというこの巧みさが見事。

 

 

しかも、それは挿絵付きの童話集でしたから、絵からわからない単語が連想できたんですね。

 

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おばあさまの隠し部屋。節税対策ではないと思います。

 

 

言語というものは、単なる記号なのではなく、その背後にある意味や歴史的文化的背景というものと密接に結びついているわけですから、おばあさまはその事を童話集を通じてハイジにわからせたんですね。

この事が第3部でのアルムおんじの考え方すら変える事になります。

おばあさまは人形劇をクララやハイジたちとやったり、食器を楽器に変えて演奏する事でクララにもっと楽しく食事をとってもらおうとしたりと、いわば、児童教育というものの先駆のような事を次から次へと繰り出してくるんですね。

このおばあさまは、並外れた人物です。

 

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「花嫁ごっこ」のスキにおばあさまは仕事のために帰ってしまいます。。

 

 

実は、こうしたおばあさまの気質はちゃんとクララにもありまして、ハイジが山に帰りたくてベッドに潜り込んで泣いているところに、「私もヤギのことは知ってるのよ」と、『7ひきの子やぎ』のお話しをハイジにしてあげると、ハイジが泣き止んで、「それからどうなるの?」と話しの続きにせがむシーンがあるんですね。

 

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召使いのセバスチャンとチネッテもいいキャラですね。

 

 

常に自分の事しか考えずに生きてきたクララが(フランクフルトの大邸宅から外出もせず、限られた人間としか接してこないような生活をしてきたので止むを得ないのですが)、ハイジの為に一生懸命お話しをするシーンはなかなか感動的です。

この、「他人のために尽くす」というのは、本作の一貫したテーマなのですが、その事が、フランクフルト編の後半で一挙に浮上し、第3部アルム編で結実していきます。

こう見ていくと、本作は、やはり、ドイツ伝統の教養小説の伝統をシッカリと守っている作品であると言えますね。

 

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 おばあさまが帰ってしまってから、ハイジはいよいよ追い詰められて。。

 

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高畑勲、宮崎駿コンビによる大傑作!

高畑勲宮崎駿アルプスの少女ハイジ』 その1

 

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画面構成。というあまり聞いたことがないような役職に宮崎駿を起用して作られた、高畑勲の最高傑作。

高畑勲の演出は第1話から驚いてしまいますね。

 

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こんなマトリョーシカみたいな姿で初登場します。

デルフリ村から、アルムおんじの家の前に行くまでて1話なんですよ。

子供向けアニメでそんなゆっくりとした展開って、ありますか、普通。

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暑くて全部脱いでしまいます。

 

第2話になってようやく家の中に入るんです。

コレはなんでしょうか。

ハイジの中の時間感覚を忠実に再現しているんですね。

見ている子供は完全にハイジの視点で時間を感じるように考えて演出してるんですよ。

こんな事を考えてアニメーション作った人は、恐らく世界的に見ても、高畑勲しかいないんじゃないのか。

とはいえ、テオ・アンゲロプロスみたい中の画面でコレが展開したら、子供は3分も見ませんよね(笑)。

そこで重要になるのが、画面構成なんですよ。

ここに、天才宮崎駿を起用しているところに高畑勲のすごさがありますね。

この作品、特に最初のアルム編の前半は、時間経過がものすごくゆっくりですけども、カット割りがものすごく多いんですよ。

 

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デーテは突然アルムおんじの孫のハイジを押しつけてしまう。

 

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アルムおんじ。彼の息子トビアスの娘がハイジなのですね。

 

 

キャラクターにあまり動きがない分、視点が実によく変わります。

そして、そこに配置されている人物や動物がどのように配置されていると画面にリズムが生まれるのかを実に考え抜いていたのが、宮崎駿です。

 

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こんなにウマソなチーズはない。

 

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ウマソ感満点!

 

子供の時はハイジに移入して見ますから、気がつかないんですけども、大人になって見ると、それが実にわかります。

だからダレないし飽きてこないんです。

ある意味、戦後の小津映画と双璧かもしれないですね。

それを子供向けアニメでやっている高畑、宮崎のコンビは一体なんでしょうか(笑)。

 

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子ヤギのゆきちゃん。動物もほぼ登場人物として扱っていますね。

 

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子トリのピッチーを守るヨーゼフ。カタツムリが好物。

 

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山羊飼いのペーターを通じで、ふもとのデルフリ村の人々がアルムおんじがハイジを大切にしている事を知る。

 

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ペーターのおばあさん。とても貧しい生活をしている。この盲目のおばあさんを助けたいという気持ちが本作の重要なテーマと結びつきます。


最近は某学習塾のCMでやたらといじられている作品ですが、チャンと全話見た方がよいでしょう。

 

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見てない人はとにかく見て欲しい!宮崎駿の伝説的傑作!

宮崎駿未来少年コナン

 

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彼の作品は大変多いですが、私は未だにこの作品が彼の最高傑作だと思っています。

2008年8月に、超磁力兵器(それが何なのかはよくわかりませんが)によって、ほとんどの人類が死んでしまい、大陸はすべて水没してしまってから20年経った世界、すなわち、2028年が本作の舞台です。

 

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禍々しいオープニング。なのに、OP曲は底抜けに明るい。

 

 

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のこされ島に不時着してしまった人々。おじいが若い。

 

主人公のコナンは、この「大変動」で、宇宙に脱出しようと試みていた人々の生き残りの子供で、唯一の生存者となってしまったおじいと一緒に「のこされ島」に2人で暮らしていました。

コナンは物心ついた時には、すでに両親も亡くなっており、おじい以外の人間を一切知らずに生きてきたんですね。

この島に、ラナ。という少女が漂着した事から物語が動き始めます。

 

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コナンが初めて見た女の子がラナでした。

 

このラナはインダストリアという勢力から逃れてきたところ、のこされ島に偶然漂着したという事なのですが、この少女は、太陽エネルギーの開発者である、ブライアック・ラオ博士の孫であり、行方不明になった博士の居所を突き止めるために、インダストリアが追い回しているわけです。

 

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なかなか当たらないインダストリアの銃弾(笑)。それをギャグにしているシーンがあります。

 

 

ラオ博士は、インダストリアが太陽エネルギーを悪用する事を恐れて、行方をくらませているんですね。

 

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コレが太陽エネルギーを供給する人口衛星。

 

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ラオ博士はもともとはこんな風貌でした。

 

 

本作の最初は、このラナをいかにして救出するのか?という事が主眼となりまして、インダストリアとその手下となっているダイス船長、行政局次長のモンスリー、そして、行政局長レプカたちと、コナン、ラナ、途中から仲間になったジムシーたちとのインダストリアでの追いかけっこが面白いです。

 

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足で真剣白刃取り(笑)!

 

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コナン必殺足指つかまり

 

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ラナを抱えたまま、コナンがとんでもない高さから飛び降りるシーンは、爆笑モノ!

 

 

コナンの人間離れした身体能力、ダイスがコロコロと都合よく立場を変えるいい加減さがもう無上までに痛快です!

この頃のアクションの描き方は、もう天衣無縫としかし言いようがないですね。

しかし、その合間に、おじいの死、ジムシーとの友情、「パッチさん」との出会いという、ただの野生児であったコナンが人間的に成長していく過程をシッカリと描いているからこその深みがありますよね。

 

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男の子同士の力くらべ!こうやって友達を作っていくものなんですね。

 

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男の子同士の友情の清々しさ。

 

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パッチとの出会いもまた前半の重要なシーンです。

 

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パッチさん。

 

おじいの死を悲しむコナンが獣のように泣き叫んで暴れまわるという表現にしたのは、見事ですね。

 

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野獣のようになるコナン。敢えて作画を悪くするというのが素晴らしいですね。

 

コレに続くハイハーバー編は、これまでのバスター・キートン的な面白さだけでなく、登場人物が一挙に増えるので、とても話しが重層的になってきているのが面白いですね。

 

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このウマソ感!

 

村の中に複雑な構造があって、村長たちが住んでいる「本村」に対して、牧畜を中心とする人々が山の向こうに住んでおり、農耕を中心とする「本村」との間に交換経済関係が成立しているのですが、この牧畜をする人々の一部が山賊化して、両者の交流を難しくしているなど(ここにコナンたちも巻き込まれるのですね)、コナンは、ここで社会とか経済というものを直に学んでいるわけです。

宮崎駿大塚康生のタッチなので、コミカルでユーモラスにはなりますが、よく考えてみると、『マッドマックス』『七人の侍』ではあります(笑)。

 

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ジムシーもウマソーという子豚を育て始める。

 

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ハイハーバーのヤング・サグ、オーロとその妹、テラ。

 

やがて、ハイハーバーには、ラナを再び奪回すべく、モンスリー次長がかなりの兵力でインダストリアを占領してしまいますが、コレが最後に大津波でひっくり返るというのは、見事な展開だと思いました。

 

このハイハーバー編は、全編の中でも白眉と言って良いのではないでしょうか。

そして、クライマックスである、ラオ博士とインダストリアの人々を救うために再びインダストリアにはコナンたちが乗り込むインダストリア編その2は、なんと言っても、ギガントとコナン、ジムシー、ダイスの戦いですね。

 

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とにかく、ダイスとコナンが暴れ回ると面白くなります(笑)。

 

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シリアスな戦いのはずなのだが、この三人衆が暴れるので面白ショットの連続なのでした(笑)!

 

宮崎駿作品に出てくる、本性がトコトン下衆なラスボスの元祖であるレプカがアホアホな3人にいいいようにボコられていく様は、何度見ても気持ちいいですな!

 

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ギガント!超巨大な飛行艇!!世界を滅亡に追いやった兵器です!!!

 

個人的には、大変動の時に辛い経験をしたモンスリーが、ハイハーバーの人たちの生き方に共感して変わっていく過程が、口グセである「バカねえ!」がだんだん優しい口調になっていくという事で表現した演出が素晴らしいなあと思いました。

 

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モンスリーが可愛くなっていくというのは、1つのテーマですね。

 

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ムクというわんこを飼っていた、優しい女の子でした。

 

 

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モンスリーはラストにはこんなにかわゆくなってしまいます!バカねえ!

 

さて、名シーンだらけの超がつく名作ですから、どんだけ全盛期の宮崎駿大塚康生の黄金コンビが凄かったのかは、実際に見ていただいた方が良いでしょう!

 

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動物が無類に可愛いのも、宮崎作品の特徴です。

ヒロシの気持ちがわかるね。

原恵一クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』

 

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オープニング曲のトースティングがなかなか素晴らしいんですけども、コレもまた天才原恵一の名を世に知らしめた名作です!

冒頭に怪獣が大阪万博ソ連館を破壊するシーンが素晴らしい(笑)!!

「20世紀博」。なるイベントが春日部で行われ、野原一家だけでなく、町中の大人がこのイベントの虜になっていきます。

 

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こんなトンデモないものが春日部に(笑)。

 

しかし、しんちゃんたち子供には、昭和へのノスタルジーなどある筈がなく、なんだかおかしいなあ。と思っているんですね。

そうこうしていると、アナログ盤が流行りだしたり(コレは現在、実際に起こってある現象ですが・笑)、街に旧車が走っていたりと、モーレツな昭和ノスタルジーに街全体が支配されていくんですね。

しかし、コレは、秘密結社「Yesterday Once More」が用意周到に行なっている陰謀だったのです。

この謎の組織のリーダーのケンの世界観はこうです。

 

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ラスボスのケンとチャコ。

 

「高度経済成長期の日本はとても希望があって輝かしかった。21世紀という未来がとても素晴らしいものに感じられた。しかし、実際の21世紀はなんとつまらないものなのだろう。であるならば、そんなものは消し去って、もう一度高度経済成長の日本に戻してしまおう」

というものです。

なんだか、『エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウみたいな事言ってますけども、なんというか、結構オトナたちの痛いところを突いてくるんですけども、コレ、子供にはなんのこっちゃわからんでしょうね(笑)。

子供にとっては、あらゆるものがsomething newなのであって、ノスタルジなど感じる事などないわけですから。

しかも、オトナたちは、ほとんど脳みそレベルで乗っ取られてきているようで、しんちゃんは、この異常さにだんだんと気づいて来るんですね。

ミサエが家事を一切しなくなり、ヒロシが会社に行かなくなるんです。

なんと、ひまわりの面倒をしんちゃんが見るという、異常な事態です。

しかし、おかしいのは野原一家だけではなく、春日部市全体のオトナがおかしくなってしまっているのです!

しかも、春日部だけでなく、どうやら、全国規模でこういう現象が起きているらしい。

 

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とてもよくできたユートピア。すなわちディストピア

 

なんちゅうか、かなり本格的なディストピアSFをしてるわけなんです。

ちょっと唖然とします。。

オトナのいなくなった春日部では、子供たちによる『マッドマックス』というか、『北斗の拳』というか、その子供版、すなわち、アラン・パーカーダウンタウン物語』が展開するんですが、そこで、あの秘密結社は子供たちを「お父さん、お母さんに会えるよ」と言って、車で連れて行ってしまいます。

 

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オトナごっこをするシーン。ダウンタウン物語』ですね。

 

しかし、しんちゃんたちはコレを怪しんで、車(コレがオート三輪なのです)に乗りませんでした。

翌日、秘密結社は「子供狩り」を始めるのですが。。

というところまでにしておきましょうか。

この映画、前半はとにかくしんちゃんたちが『マッドマックス 怒りのデスロード』や『ブルースブラザーズ』並みの大活躍をするのですが、後半はヒロシのお話しになっていくんですが、コレが一切言えませんな(笑)。

 

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怒りのデスロード』に先んじて(?)のなかなかのカーアクション!

 

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 こんな風に運転してます(笑)。

 

ここからがこの映画の真骨頂というか、原恵一の世界ですね。

コレは、一貫した彼の描きたい世界であり、多分、子供映画だと思ってイヤイヤながらきてしまったお父さんたちは涙無くして見る事が出来ないでしょうね。

マルセル・プルーストが生涯をかけて書いた大作『忘れられた時を求めて』では、有名なマドレーヌを食べた時の味から、主人公の「私」が過去を思い出すのですが、この作品は「におい」です。

 

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自分のくつの「におい」から何が大切なのかを思い出すヒロシ。

 

さあ、野原一家は、秘密結社の野望を打ち砕く事が出来るのでしょうか?

それは見てのお楽しみでございます!

子供にとっての「今」が果たして大切にされているだろうか?という監督のメッセージは、むしろ、現在切実な問題になっているような気がしてならない、大傑作。

 

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 ちょっとオトナになるしんのすけを見て、泣けてこないお父さんはいないでしょう!

 

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