高畑勲、宮崎駿『アルプスの少女ハイジ』 その2
デーテの再登場によってフランクフルト編が始まります。
本作は1年近い放映でしたから、一本で論じるのはちょっと難しいと思いまして、3本に分けました。
本作はもう古典と言ってよい作品ですから、かなりネタバレさせながら論じますので、まだ見たことない方は、アマゾンプライムで一気に(と言っても、50話を超える作品ですけど)ご覧いただいてから読んだほうがよいです。
さて。
本作は、三部構成で、前回は主にその第1部であるアルム編における宮崎駿の画面構成のすごさについて語りました。
今回は第2部のフランクフルト編です。
本作は、特にいつのお話といことは一度も出てきませんけども、ヨハンナ・シューピリの原作と照らし合わせると、1880年代、即ち、日本でいうと、明治の中頃のお話ということになるのですが、フランクフルトは、新興国家ドイツ帝国のほぼ真ん中に位置する、商業を中心とした大都市です。
現在でも、ヨーロッパの金融の中心の1つです。
かの文豪ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、このフランクフルトの裕福な家庭に生まれました。
ハイジがこの大都市に行かざるを得なくなる原因はまたしても叔母のデーテでして、彼女が働いていたゼーゼマン家。というフランクフルトでも屈指も商家の娘を学友にという、かなり無茶な話をハイジに持ってきてしまったんですね。
アルムおんじは反対しましたが、ハイジを騙して汽車に乗せ、フランクフルトのゼーゼマン家の大邸宅まで連れて行ってしまいます。
騙す形でハイジを汽車に乗せてフランクフルトに連れていってしまう、デーテ。
汽車という近代の乗り物が突如出現する事で初めてこの話しが19世紀末である事を、見ている側に突然わからせるというか、ものすごい断絶感を与える高畑勲の演出は、見事ですね。
この第2部は、宮崎駿よりも、高畑勲の演出でジックリと見せていこうとしてします。
山での生活は、モミの木という、トーテムがあって、おじいさん、山羊飼いのペーター、ペーターのおばあさんそして、子ヤギのゆきちゃんやセントバーナードのヨーゼフ達との、いわばおとぎの国のような、ほとんど神話構造みたいになっていて、いつ、どこの話しなのか、ほとんどわからないんですよ。
場面設定が極端なまでにミニマムなんですよね。
そこを転換させるのが、第1話で自分の勝手な都合で伯父であるアルムおんじにハイジを押しつけていったデーテなんですね。
突然、フランクフルト。という実に生々しいちめいがでてきて、神話世界から、リアルな現実生活に、ほとんど強引に引き込まれたハイジは、恐らく、生まれて初めてドイツの大都市というもの、近代というものに無理やり参加させられてしまいます。
嫌がるハイジを無理やり汽車に乗せるデーテ。
よく考えると相当に極端な展開ですが、アニメーションであるがゆえにそれがなぜが成り立ってしまうという事をよくわかった上でやってますよね。
コレを実写でやると何ともかなり不自然だと思います。
もう1人の主人公と言ってもよいクララ・ゼーゼマン。大富豪の一人娘だが、病弱で歩く事ができない薄幸の美少女。
このフランクフルト編の前半は、なんと言っても、ゼーゼマン家の執事である、ロッテンマイヤーとハイジの絡みが重要ですね。
読み書きもできず、自分の洗礼名である「アーデルハイド」すら知らず(ちなみにアーデルハイドは、亡くなったお母さんの洗礼名でもあります。お父さんはトビアスと言いまして、おんじの息子でこれまたすでに亡くなっています)、テーブルマナーも知らないハイジを完全に野蛮視し(クララも当初は物珍しがってハイジを見ている事に注意する必要があるでしょう)、コレを無理くり「文明人」として矯正するように接し続けるこのキャラクターの振る舞いと、まさに「未開人」としてしか生きてこなかったハイジ(それはアルムおんじの考えの反映でもありますが)の対比によって、いささか極端ではありますが、未開と文明を対比させているんですね。
ほとんど「ニガー」としか見ていないのがすごいですな。。
動物がとにかくニガテなロッテンマイヤー。
チョイチョイ出てくる手回しオルガンの少年。亀を飼っている。
何しろ、ハイジの名前すら剥奪してロッテンマイヤーは「アーデルハイド」と呼び続けます(最後までこの呼び方を変えないんですよね)。
アフリカからアメリカ大陸に無理やり連れてきた人々を奴隷として売買して、「ジョージ」とか「トマス」と名づけるような構造とほとんど同じ事をしているんですね、これは。
よく考えると、恐ろしく残酷です。
高畑、宮崎コンビは、人間が本然的人間が持っているであろう、「野生の思考」に満ち満ちたハイジを支持し、都市文明に批判的な目を向けて描いており、それは後に世紀の傑作『未来少年コナン』を生み出す事になるのですが、それはまた別の機会に。
ペーターのおばあさんのために白パンを隠し持っている。当然、硬くなってカビが生えてしまうのだが。。
この極端なまでのボンデージ生活にハイジは心身のバランスすら壊してしまうほどですが、コレを救うのがクララのおばあさんなのでした。
ロッテンマイヤーとハイジ。という構図では、ハイジが潰れますからそこに名バイプレイヤーが登場する事で、この極端な構図が、とても豊かになり、都市生活者にも野生の思考を持つ人がいる事(そして、それは孫であるクララも第三部には於いて身につけていく事になりますね)を示しており、単純な都市文明批判になる事を回避しています。
バーン!と扉を開けて「クララ!」と叫んで登場するのがゼーゼマンさんのお約束。ハイジとクララの生活がうまく言ってない事を知る。
クララのおばあさまは、ゼーゼマン家の繁栄を一代で作ったと思われる大変な人物なのですが、その登場の仕方からして、只者ではありません。
クララとハイジのために息子(つまり、クララのお父さん)に呼び出されて登場するおばあさま。
このおばあさまの登場によって、フランクフルト編の後半は実にカラフルになり、また、本作での重要な2つの要素、それは、ハイジがドイツ語の読み書きができるようになる事、そして、クララの健康のためには、自然の中で暮らすことが最も大切である事が見いだされます。
ロッテンマイヤーと家庭教師は、ハイジにとにかくアルファベットの暗唱をひたすら強制するのですが、一向に覚えようとしません。
その様子を見たおばあさまは、就寝時にハイジの部屋にコッソリとやってきて、ハイジが眠るまで本を読み聞かせる事にしました。
これを繰り返すうちに、本には面白い事が書いてある事を知り、ハイジは自分から本を読もうとするのでした。
人形劇で遊びながらハイジにドイツ語を学ばせるというこの巧みさが見事。
しかも、それは挿絵付きの童話集でしたから、絵からわからない単語が連想できたんですね。
おばあさまの隠し部屋。節税対策ではないと思います。
言語というものは、単なる記号なのではなく、その背後にある意味や歴史的文化的背景というものと密接に結びついているわけですから、おばあさまはその事を童話集を通じてハイジにわからせたんですね。
この事が第3部でのアルムおんじの考え方すら変える事になります。
おばあさまは人形劇をクララやハイジたちとやったり、食器を楽器に変えて演奏する事でクララにもっと楽しく食事をとってもらおうとしたりと、いわば、児童教育というものの先駆のような事を次から次へと繰り出してくるんですね。
このおばあさまは、並外れた人物です。
「花嫁ごっこ」のスキにおばあさまは仕事のために帰ってしまいます。。
実は、こうしたおばあさまの気質はちゃんとクララにもありまして、ハイジが山に帰りたくてベッドに潜り込んで泣いているところに、「私もヤギのことは知ってるのよ」と、『7ひきの子やぎ』のお話しをハイジにしてあげると、ハイジが泣き止んで、「それからどうなるの?」と話しの続きにせがむシーンがあるんですね。
召使いのセバスチャンとチネッテもいいキャラですね。
常に自分の事しか考えずに生きてきたクララが(フランクフルトの大邸宅から外出もせず、限られた人間としか接してこないような生活をしてきたので止むを得ないのですが)、ハイジの為に一生懸命お話しをするシーンはなかなか感動的です。
この、「他人のために尽くす」というのは、本作の一貫したテーマなのですが、その事が、フランクフルト編の後半で一挙に浮上し、第3部アルム編で結実していきます。
こう見ていくと、本作は、やはり、ドイツ伝統の教養小説の伝統をシッカリと守っている作品であると言えますね。
おばあさまが帰ってしまってから、ハイジはいよいよ追い詰められて。。