mclean-chanceの「Love Cry」

はてなダイアリーで長年書いてきたブログを移籍させました。生暖かく見守りくださいませ。

1986年に録音された二つの録音からウィントン・マルサリスを考える。

Wynton Marsalis『Marsalis Standard Time vol.1』、『Live at Blues Alley』(columbia / Legacy)

 

 

 

Personnel ;

Wynton Marsalis(tp),

Marcus Roberts(p),

Robert Leslie Hurst Ⅲ(b),

Jeff “Tain” Watts(drms)


recorded at RCA Studio A on May 29-30 and September 24-25, 1986(Marsalis Standard Time vol .1),


recorded at Blues Alley, Washington, D.C. on Friday, 19 and Saturday, 20 December, 1986(Live at Blues Alley)

 


アート・ブレイキーのジャズメッセンジャースに久しぶりに大変な神童トランペッターが加入して、過去の遺物と化していたこのコンボが再び脚光を浴びました。


それがウィントン・マルサリスです。


リー・モーガンの再来」というのは決して冗談ではない、ブリリアントな才能に溢れたプレイは、次世代を担うスターとなる資質充分でした。


その彼が独立してリーダーとしてアルバムが続々と出されましたが、ここではとても対照的な2枚を紹介しておきましょう。


「スタンダード・タイム」というシリーズは、コロンビア(現在はソニー傘下のレーベルです)からvol.6まで出されました。


ワンホーン・カルテットで「キャラバン」、「パリの四月」、「チェロキー」、「枯葉」と言った、言うなれば、「ど」がつくジャズスタンダード曲を遠足するという、まだ24歳の若者とは思えないとても大胆な(だか、一歩間違えると、大変後向きでもある)試みですが、恐ろしいまでの一心同体ぶりで、とてつもない技術で弾きこなしてしまうのは、恐らく誰が聞いても唖然とするのではないでしょうか。


「パリの四月」は、テーマをBPMを伸び縮みするように早くしたり遅くしたりをポリリズムを加えながら一糸乱れずに演奏するというのは、恐らくは一発勝負ではなく、相当な鍛錬を積み、考え抜かれたアレンジによって作られたものと思います。


当時、こんな事が出来るのは、ブレッカー・ブラザーズくらいなものでしょうけども、同じ頃、キース・ジャレットが結局、2010年代まで続くこととなった「スタンダード・トリオ」とマルサリスがやっている事は、明らかに違う気がします。


キースは60年代に、チャールズ・ロイドのサイドメンとして脚光を浴び、更に短期間だけマイルス・デイヴィスのバンドに在籍した後独立して、数々の問題作を量産する、ジャズ界の異端児というか、やる事なす事常に物議を醸し出す怪物的な存在でした。


この時代のやりたい放題が私には1番楽しいんですが(笑)、そんな彼が突然出したのが、『Standard vol.1』『同 vol.2』が出て、逆に驚いてしまいました。


しかも、コレが大変な名演で、キースの溢れんばかりの才気がスタンダード曲といういい意味での制限をつける事で、拡散的な表現ならなりがちが彼のピアノの表現が的を正確に射るようになったと思います。


この表現と形式のものすごい相克の中で、「今ここ」で演奏されるスリリングを改めて生み出すという喜びを表現するという、ある意味、モダンジャズの原点回帰的なエネルギーを取り戻そうとしているような気がします。


キースは当時のジャズの異端児であり、異物感タップリな存在ですが、ウィントンが脚光を浴びたのは1980年代初頭という、ジャズがかつてのような熱気を帯びていた時代がもう過ぎ去った後です。


ウィントンは大変アタマのいい人であり、この厳しい現実をかなりシビアに受け止めていたものと思います。


そんな彼がスタンダード集を作ったのは、ジャズファンの保守化に乗る。という、政治的な戦略だったのでしょう。


しかも、表面上は汗ひとつかかないで(実際は汗だくだと思いますが)、非常に破綻のない、しかし、唖然とするようなテクニックをこのカルテットは見せつけます。


その最たるものが、前述した「パリの四月」であり、ここでの演奏法は他には「枯葉」でしか大々的にやってないので、彼らでもコレは相当難しい演奏でそう易々とはできないのでしょう。


クレジットにワザワザ、誰がアレンジをしました。という事をモダンジャズのスモール・コンボの演奏で載せる事はとても珍しい事ですが、このアルバムは全曲書いてあります。


つまり、ウィントンたちには、かつてのようなアドリブを競って無邪気に盛り上がっていれば、ジャズが活性化されるという事にかなり懐疑的なんですね。


そこをどのように評価するのかによって、ウィントンの評価というのは、かなり変わってしまいます。


しかも、更に混乱するのは、同じ1986年に、ワシントンD.C.のライブハウス「ブルース・アリー」での全く同じ編成で、燃えに燃えまくる演奏をしているからなんですね。


ジャズファンで、この演奏を聴いて血が騒がない人はまずいないであろうライヴ盤であり、コレを聴けば、どんなにウィントンに疑念を持つ人もコレは認めざるを得ないでしょう。


たまたま、同じ曲「枯葉」が演奏されているのですが、両方の演奏を何も知らずに聴かせれば、同じ人たちが演奏していると気がつかない人もいるでしょうね。


ウィントンはやろうと思えば、いつでも熱血ジャズをやる事が出来るのですが、彼は敢えて「クール」な表現をスタジオ録音では選びとっている事を、この2つのアルバムを聴き比べるとわかります。


私はウィントンのスタジオ録音から感じるのは、ジャズをある演奏形式みたいなものとして考えているフシがあるのではないのか?という疑念です。


私は演奏に精巧なアレンジを加えていく事や、敢えて燃え上がらないように演奏する事に反対するつもりはありません。


ポール・デズモンドが目指していたのは、まさにそういう美学でしたから(かなり屈折してますけど)。


マイルスをディスってビーフに持ち込むなど(しかも、マイルスの60年代のクインテットのメンバーをサイドメンにしたアルバムがウィントンのソロデビューなのです)、知的な戦略にも長けています。


しかし、ジャズというものをとても狭い範囲で考えすぎている気がしないではありません。


聴いていて、とてもスリリングではあるんですが、それと同じくらいにアタマで構築している事が先行している事などなど、要するに、彼の音楽は見た目以上に実は生煮えだったのではないのかと思います。


この事は、ライヴ盤を聴くとかなり露わになってしまっています。


と言うのも、こちらのライブ盤だと、ウィントンは全力を出して吹きまくるのに、サイドメンはほとんど引きずられるように演奏していて(決してヘタではないのですが)、ウィントン以外はその他大勢であるという冷酷な事実がバレてしまっているんです。


つまり、スタジオ盤の演奏は実はバンドの水準にウィントンが合わせている側面もあるんですね。


ウィントンの発想やコンセプトは理解できても、技術的にまだまだついてこれる人はほとんどいなかった。という事なのでしょう。


そういう意味で、ウィントンのみを悪の権化のように言う時代はもう終わったのだと思います。


ただ、現在に至るまで、ウィントンのサイドから、優秀なジャズメンが出てきているとは言えないのは、ちょっと考えものです。

 

 

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