Richard Galliano『New York Tango』(Dreyfus)
personnel;
Richard Galliano(accordion),
Bireli Lagrene(g),
George Mraz(b),
Al Foster(drms)
recorded at Clinton Recording Studios, NYC on 11-13 June, 1996
アコーディオンはジャズでは決してよく用いられる楽器とは言い難いが、リシャール・ガリアーノという超絶的ないテクニックを持つアコーディオン奏者は、あまりジャズ的とは言えないこの楽器が、ジャズ以外のジャンルで多く用いられている事をむしろ利点としてきた人であると思っている。
アコーディオンは世界的見るといろんな音楽に使われている。リシャール・ガリアーノはその中でも傑出して1人です。
ここで話しが急展開するが、ジャズには決まった、語法、奏法、様式、楽器というものを持っていない音楽であるというと、仰天するであろうか。
トランペットやサキソフォン、ベイスはどうなのか?と言われますと、実はこれらはもともとクラシックと言いますか、西洋音楽で使われていたものを流用したに過ぎないのですね。
ドラムセットはアメリカで誕生したものですから、コレはそうなのか?とも言いたくなりますが、もはや、ありとあらゆるジャンルでセッティングをそれぞれに変えながら使われているので、最早、これもジャズならではとは言い難い。
ギターもまさにそうですし、その他の木管、金管楽器もそうです。
ピアノなんてものは、西洋音楽の権化ですよね。
要するに、ジャズは目の前にあった楽器で行われたに過ぎず、時代の推移とともに、他ジャンルからいろんな楽器を取り入れたり、奏法を変えたりして成り立っている、いわば、スタート時点から混血児なんですね。
「ジャズは黒人音楽だ!」というのは間違ってはいないですけども、それは部分観です(大変大きな部分ですけども)。
さて、こうなってきますと、およそ、モダンジャズの語法を演奏するに余り向いているとは言い難いアコーディオンをジャズに導入する事、そして、その奏者がジャズの語法でないものを多分に身につけていたとして、それは、「ジャズ」を行うのに、些かの障害にもならない事は、歴史的に明白なわけです。
ガリアーノは子供の頃にクリフォード・ブラウンとマックス・ローチの双頭コンボに衝撃を受けて、ジャズをアコーディオンで演奏できないだろうか。と考え、試行錯誤していたのだそうですが、このエピソードからわかるように、かなりの歴史を持つジャズへのリスペクトがあった上で、本作のようなアルバムを作っているのであり、単なる思いつきではない。
それは演奏を聴けば明らかであって、サイドメンはいずれもモダンジャズにおける歴戦の勇者であり、今更詳細な説明などいらぬメンツです。
とりわけわたしが感銘を受けたのは、ベイスのジョージ・ムラーツです。
ムラーツの録音は膨大すぎてとてもここには列挙できない。
チェコスロヴァキア出身のベイシストであるムラーツは、その活動の拠点をアメリカとしていた人であり、彼がベイシストとして卓越している事は、彼のとりわけ1970年代にサイドメンとして膨大に録音された演奏を聴いていれば、イヤというほどにわかっていたつもりなのですが、本作での決して派手さのない、実に渋い脇役に徹しきった、淡々とした演奏を聴いていますと、ジャズという音楽が好きになってホントによかった。としか言いようのない深みが一音一音からこぼれ落ちてくるようで、ホントに素晴らしい。
ガリアーノやビレリ・ラグレーヌが自由奔放に演奏できているのは、明らかにムラーツの恐ろしく手堅いあったればこそであり、本作の最大の功労者はジョージ・ムラーツと言って良いと思う。
タンゴ、シャンソン、ジャンゴがジャズという混血音楽の中で絶妙に混ざり合い、あたかも、コーヒーと牛乳がカフェオレという、全く違う飲み物に変貌ぶりしていくような面白さを味わう事の出来る痛快作として、本作はジャズファンに躊躇なくオススメできます。
すでに廃盤ですが、中古で比較的安価に入手可能です。